立原恭輔「自由主義者の日記」

保守の立場からの政治問題を主とするblogであったが、いつの間にか「矢島舞依」「Velka」などを中心としたロックファンblogの様相を呈しつつある。 学位は博士(専攻は非公開)。

mai 2014

マックス・ウェーバー著 尾高邦雄訳 岩波文庫版 1993年2月15日 第66刷である。初版発行が1936年であるから、超ロングセラーと言えよう。訳者は「尾高・宮沢論争」で有名な法哲学者・尾高朝雄の弟である。

本書はウェーバーが死の前年にミュンヘンで行なった講演の記録であるので、分量も少なく、比較的平易な内容となっている。

ところで、Yahooニュースで「池上彰、テレビで『自分の意見言わない』理由」という記事を見つけた。
「職業としての学問」にも通じる内容であったので、取り上げてみる。
ただし、私は池上氏についてはよく知らない。出演番組も選挙特番ぐらいしか見たことがないので、あくまでもこの記事を読んでの感想である。

>>>タブーを恐れず相手に斬りこんでいく様は「池上無双」とも呼ばれている。一方で「自分の意見は言わない」という姿勢を貫き、唯一無二の存在感を放っている。

たしかに、選挙特番で公明党の当選者に「あなたは創価学会の会員ですか?」と質問をぶつけていたような記憶がある。一般のキャスターからは、まず出ない(出せない?)質問であろう。

>>>池上氏は「NHKの報道は客観的に公正、公平、中立でなければならないと叩きこまれてきました。自分の意見は述べてはいけなかったんですね。NHKでずっとやってきたことが、民放テレビ局でビジネスとして成り立ったということですよね」
>>>「いざ、フリーランスになる決意をしたら、どうやって食っていくかという問題もありますし、人と同じことをやっていても生き残れない。人と違う自分の強みは何かを考えた時に、『自分の意見を言わない』というニッチな需要を見つけたんです」

NHKの報道が「客観的に公正、公平、中立」であるかどうかの議論は別として、NHKは公共放送であるし、限りある電波を寡占的に利用する放送事業者は放送法第4条において以下のとおり制限を受けている。
>>>第4条 放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
>>>一 公安及び善良な風俗を害しないこと。
>>>二 政治的に公平であること。
>>>三 報道は事実をまげないですること。
>>>四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

もっとも問題になりやすいのは二の「政治的に公平であること」であろう。特にテレビ朝日やTBSが政治的に公平であるとはとても思えないのだが、これについては「局の意見を代弁するゲスト、あるいは社員でないキャスターを起用し、彼ら個人の意見として語らせる」という抜け道がある。
また編集によっても受ける印象は大きく変わる。例えば街頭で素人の素朴な意見をいくつか聴取し、そのあとでその意見に反対する専門家を登場させるなどの手法がある。

先ほど池上氏の出演番組はあまり見たことがないと言ったが、たしかに持論を展開するというよりは、今起きている事実を説明したうえで「こっちはこう言っていて、あっちはこう主張している」という両論併記的な進め方をしている印象はある。

そしてヴェーバーは、教師は講義の中で学生に対し自己の主張を説いてはならないと述べる。

>>>大学で教鞭をとるものの義務はなにかということは、学問的にはなんぴとにも明示しえない。かれにもとめうるものはただ知的廉直ということだけである。すなわち、一方では事実の確定、つまりもろもろの文化財の数学的あるいは論理的な関係およびそれらの内部構造のいかんに関する事実の確定ということ、他方では文化一般および個々の文化的内容の価値いかんの問題および文化共同社会や政治的団体のなかでは人はいかに行為すべきかの問題に答えるということ、――このふたつのことが全然異質的な事柄であるということをよくわきまえているのが、それである。もしこれにたいしてさらに人が、なにゆえ教室ではこのどちらもが同様に取り扱われてはならないのか、とたずねたならば、これにたいしてはこう答えられるべきである、予言者や扇動家は教室の演壇に立つべき人ではないからである、と。

たしか「憲法学者は預言者のように振る舞うべきではない」と言った我が国の学者がいたような気がして、阪本昌成博士だと思って著書をめくってみたが、見つけることができなかった。
ともあれヴェーバーは、学問として事実を確定することと、一定の価値に基づく政策とを峻別し、その価値観を強制するべきでないと主張しているのである。
さらにヴェーバーは聴衆に向かって次のように述べる。

>>>100人の教師のなかのすくなくとも99人は人生におけるフットボールの先生ではないということ、いな、およそいかなる人生問題についても「指導者」であることを許されていない。

ヴェーバーの要求する「価値自由」とは「価値判断から自由であることによる客観性の担保」と理解してよいと思うが、現実社会に生きている我々にそれが可能かといえば極めて困難、というより不可能である。我々は常に社会的な出来事や環境に拘束されつつ物事を認識しているので、どうしてもそこには個人個人の主観が混入することとなり、真に「価値自由」であることはできない。

そこで、主観的である自らを自覚することで、少しでも客観的であることを心がけるべきであるというのが、彼の立場であると言ってよいだろう。

最後に、私の最も印象に残った一文を紹介する。文部科学省は、全ての教員志望者にこの言葉を叩きこむべきだと思う。

「有能な教師たるものがその第一の任務とするべきものは、その弟子たちにとって都合の悪い事実、たとえば自分の党派的意見にとって都合の悪い事実のようなものを承認することを教えることである」

講談社学術文庫 1992年第22刷である。
東宮御教育常時参与や慶應義塾の塾長も務めた小泉信三の名著である。平易に書かれているので、誰にでも理解できる。
もとは昭和24年に出版されたものであるが、当時の風潮において共産主義を批判するには勇気が必要だったかも知れない。昭和29年の文庫版の序文に「何故か人々は、ことに知識階級と呼ばれるものの間には、共産党または共産主義に対する批判をはばかり、(略)別段の所信もなしにこれに追随するものが少なくないように見えた。私はこれに不満であった」と書いている。
「常識」と題するだけあって、マルクス経済学を多少なりとも学んだ者であれば、大筋は知っている内容である。私は大学の専門科目のひとつとして「社会主義経済学」(という名称だが、講義の内容はその批判であった)を選択して教科書を読んだ経験があったのと、共産主義を批判する各種論文や記事を拾い読みしていたので、再確認的な意味で有益であった。
しかし、マルクスとエンゲルスがスラブ人を徹底的に蔑視していたことなどは知らなかった。第6章「階級と民族」は必読である。筆者も序文に「民族問題、ことにスラヴ、ドイツ民族問題に対するマルクスの態度については、従来日本語の文献ははなはだ乏しい」と述べている。
「スラヴ民族というものに対しては、彼らは明らかにドイツ民族の優越を主張し、ドイツ民族の自由と統一とに対すると同じ権利を、スラヴ人、ことに墺領内スラヴ民族に認めることをしなかったことも事実であった」(P.142)
「プロレタリアートは祖国を持たぬ」と言い、その生涯の大半を亡命者として生きた国際主義者とされるマルクスが、ドイツ民族主義に対しては比較的寛容であり、スラブ人やイタリア人に対してはその民族的要求を簡単に退けていたことは非常に興味深い。
マルクス主義についておさらいをするならば、第5章「マルクシズム概観」と第7章「搾取論」を読めば、その誤謬が明らかになる。
私のような経済学の基礎を学んでいない者にとっても非常にわかりやすい著作である。
共産党や共産主義の胡散臭さには気づいていても「どこが間違っているのかはよく分からない」という人は多いと思うので、一読を勧めたい。
我が国に関していえば、たまたま日本共産党の主張や政策が間違っているのではなく、共産主義理論そのものが誤謬に満ちているのである。
ここを理解していないと「共産党はなかなかしっかりしている」とか「批判政党として存在すべき」などという滑稽な勘違いをすることになる。

今日は紹介のみです。

2分10秒あたりから、「平和運動」が見られます。

https://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=1...

いろいろあって延期していた「母の日」のお祝いを、ようやく昨日やった。
私自身の母とは先日家族で食事をしたので、昨日は子供たちから家内への「母の日」である。

子供たちからは、家内の好きなアロマオイルを2種類。ひとつはバニラ、オレンジスウィート、イランイランを、もうひとつはグレープフルーツ、ティートゥリー、リツエアクベバ、ライムを、それぞれブレンドしたものである。

一応私からも、清水焼の湯飲みをプレゼントした。愛用していた湯飲みを先日誤って割ってしまったので、その代替である。

夕食には奮発して高級スーパーで買って来た高級牛肉を私が焼いたステーキである。味付けはシンプルに塩と胡椒のみ。フランベはジンでやってみた。フライパンから燃え上がる炎に子供たちが歓声を上げる。
上手くミディアムレアぐらいに焼けたので、霜降り肉の柔らかさと牛脂の旨味を存分に味わうことができた。
テーブルの上には、庭から切ってきたバラが飾ってある。
ちょっと調べてみると、同じランクの肉をレストランで食べたら一人前1万円近くはするようである。それを考えれば非常に安い買い物であった。

フライパンに牛脂がたくさん余ったので、玉子チャーハンにしてみた。普通はラードで炒めるのだろうが、こちらもなかなか上手くできた。

こんなふうに週末にはたくさん食べてしまうので、一気に体重が増える。その分を、一週間かけて落としていくのがパターンになってしまった。
しかし家内が「卯の花(おから)」を炊いたり食事には気を使ってくれるので、おかげで健康状態は良好である。

いつもいろいろと文句ばかり言っているが、感謝している。ありがとう。

最近、「簡体字やハングル表記が多すぎて却ってわかりにくい」という意見をよく耳にします。

私も同意見ですが、海外で日本語の案内があればありがたいと思いますし、「簡体字だから」「ハングルだから」イヤだとは思っていません。簡体字とハングルがなくなったとしても、国連公用語が全部並べられたら今以上にわかりにくくなります。

 

そんなとき、非常にシンプルかつ説得力あるご意見を拝読しましたので、以下に引用します。こういうことであれば差別でもなんでもないので、堂々と主張できます。

 

【以下引用】

昨今、英語(ローマ字)表記以外の外国語が、主張しすぎて分かりやすさという本来の目的を見失っているのではないかと感じています。極々小さな一例として札幌市の地下鉄東豊線の月寒中央駅を見てみます。

札幌市の外国語表記ガイドライン(英語・中国語・ハングル)[平成25年度版]によれば、

日本語で「月寒中央」、

英語(ローマ字)で「Tsukisamu chuo」、

中国語(簡体字)で「月寒中央站(Tsukisamu chuo)」、

韓国語(ハングル)で「쓰키사무추오

と表記だそうです。結論から言えば、日本語とローマ字表記のみで他は必要無いと思います。理由は、地名や固有名詞を日本語読みするに当たって、日本語読みを最も”まとも”に「ツキサムチューオー」と表現出来ているのがローマ字だけだからです。

中国語では、日本語における「月寒中央駅」を簡体字で「月寒中央站」と表記しているだけです。当然簡体字は表音文字ではないので、これだけでは駅名の音声案内(ツキサムチューオー)などに対応できないので、「Tsukisamu chuo」とローマ字も併記。もはや、その必要性が分かりません。(余談ですが、日本語表記と簡体字表記が同じ場合でも、馬鹿正直に両方表記してます)

そして韓国語では、ハングルで「쓰키사무추오」と表記していますが、これも正しく「ツキサムチューオー」と表記出来ていません。そのまま読むと「ッスキサムチュオ」になります(むしろ「츠키사무추오/チュキサムチュオ」の方が、ぽい気がするのですがガイドラインでは「」になってるので、そっちの方がマシなのでしょうか?)。

地名や固有名詞に外国語表記を併記する一番の理由は、外国人の方に分かり易くということなのでしょう。であるならば、日本語の読みを最もまともに表記できるローマ字のみで良いというのが私の結論です。不完全な表記に場所を使うなら、ローマ字をもう少し大きく表記するとか、本当の意味での外国人へのおもてなしは色々とあると思います。

翻訳した方が分かり易い部分(例えば、乗車券=ticket票=승차권とか)については、個別に対応すれば良いのであって、地名はローマ字表記以外は必要ない。と、思う今日この頃です。

【引用終了】

 

考えてみればその通りですね。

我々だって言葉のわからない国に行ったとき、日本語が書いてあってありがたいところと、書いてあっても意味がないところがあります。

パリで凱旋門の場所を尋ねたいときにはArc de Triomphe del'Etoileという言葉が必要なのであって、地名や駅名が翻訳してあったら、却ってわけがわからなくなります。

 

今後の「表記改善運動」はこれで行きましょう。

↑このページのトップヘ