立原恭輔「自由主義者の日記」

保守の立場からの政治問題を主とするblogであったが、いつの間にか「矢島舞依」「Velka」などを中心としたロックファンblogの様相を呈しつつある。 学位は博士(専攻は非公開)。

juin 2014

今日は梅雨の中休みだったので、午前中は泥だらけになって庭の草取りをし、午後はわんこを8種混合ワクチン接種に連れて行った。いつもの先生が背中に注射針を刺した時にちょっと唸ったが、今日もいい子であった。

いつも行く病院はペットショップに併設されているので、ついでに抜け毛がよくとれると評判の「ファーミネーター」というブラシを買ってきた。高い。6千円近くもするのだが、家じゅうが抜け毛だらけになるよりはマシだし、アンダーコートが抜けなくては本犬も暑いことだろう。

以前店頭で試してみた時には本当にごっそり取れたので、家に帰ってから娘と息子に手伝わせ掃除機で吸い取りながらやってみた。
すごい抜け方である。もともと小柄なのにますます小さくなるのではないかと思いつつブラッシングしていると、しばらくして悲鳴をあげた。どうやら注射した部分を私がさわってしまったらしい。
ごめんね~と言いつつ続けていると、腕の中から逃げようとしたので捕まえたところ、また悲鳴。痛いところに再びクリーンヒットしたようである。

そのあとはうろうろと逃げ回り、娘と息子が呼べば来るのだが、私が呼んでも来ない。

お医者さんにも「今日はなるべく安静に」と言われていたので、ブラッシングはあきらめた。我々もインフルエンザなどの予防注射をした部分が腫れることがあるが、わんこも同じなのだろう。

かわいそうなことをしてしまった。

ところで、8種混合ワクチンなど打つ必要はないという意見がネット上には氾濫しているが、どうなのだろうか。
子宮頸がんワクチンの副作用が問題になって以来、人間に打つワクチンも「製薬会社の陰謀」みたいにいう人が増えているようである。

民主党の小西ひろあき議員がBLOGOSに「解釈改憲の閣議決定は違憲・違法ゆえに無効である」という投稿をしている。投稿には「解釈改憲が、国家権力が国民の皆様の憲法をハイジャックし、民主主義と法治国家を滅ぼす空前絶後のクーデター行為であることをご理解頂きたいと願っております」とある。

 

となると、小西議員は自衛隊否定論者と理解すべきのだろう。自衛力の保持そのものが解釈改憲の結果だからである。

19466月、吉田首相が以下のように答弁している。

「自衞權に付ての御尋ねであります、戰爭抛棄に關する本案の規定は、直接には自衞權を否定はして居りませぬが、第九條第二項に於て一切の軍備と國の交戰權を認めない結果、自衞權の發動としての戰爭も、又交戰權も抛棄したものであります」

つまり92項に基づく「全面放棄説」である。

 ところが1972年には当時の内閣法制局長官が

「戦力とは、広く考えますと、文字どおり、戦う力ということでございます。(略)憲法第九条第二項が保持を禁じている戦力は(略)自衛のための必要最小限度を越えるものでございます。それ以下の実力の保持は、同条項によって禁じられてはいないということでございまして、この見解は、年来政府のとっているところでございます」と答弁している。

ここに至るまでにも、1953年に当時の外務省条約局長が「国家の自衛権を憲法は禁止しておりませんから、自衛行動はとれると思います」

と答弁するなど、9条に関する閣僚や政府委員(官僚)の答弁は数多くあり、解釈の変更はすでに行われているのである。「空前絶後」でもなんでもない。

 

民主党が弱小政党に転落した以上、政権を奪うことよりも出来る範囲で与党に協力しつつ自らの主張を与党の政策に反映させようと努力する方が現実的である。私が大嫌いな公明党はそのようなやり方でそこそこ上手くやっている。

しかし民主党はそもそも鳩山家の財力と小沢一郎の集票力を頼りにした選挙互助会として結成されたものに過ぎないし、いまでも民社協会から旧社会党左派まで、全く政策的統一が取れていない集団である。政策の統一ができないから、ともかく自民党との間に対立軸を設定し、コトの正否よりも勝ち負けを問題にするようなことしかできない。

こんな民主党の小西氏も所詮は「政治屋」、政局や自分の議席の方が国民の安全よりも優先らしい。

「異常接近と靖国神社」と題する一文がBLOGOSに投稿されている。
一言で言えば「中国軍機との空中衝突、あるいは撃墜されることで自衛隊員に死者が出た場合、靖国神社に合祀するのか、すべきか否かという問題」を提起するものである。
http://blogos.com/article/88981/

多くの方が意見を寄せているが「自衛官護国神社合祀事件」判例をご存じないと思われる方が意外なほど多いのに少々驚いた。
「政教分離に反するので合祀すべきでない」というピント外れな意見(政府が合祀申請するのでもない限り、政教分離とは関係ない)もかなりあったが、「事前に本人の意思確認をしておくべき」「遺族の希望が前提」といった意見もかなり多い。

国が自衛隊員の戦死者を靖国神社に合祀する法的義務は当然ながらないが、隊友会が合祀申請を出して殉職者(戦死者)を護国神社に合祀する慣例はある。
その場合、遺族が宗教上の理由で合祀を拒否しても、隊友会が神社に合祀申請を出せば合祀されるし、法的にも問題ないというのが判例である。

この判例に則って考えれば、殉職者でさえ護国神社に合祀されるのだから、、戦死者についても合祀されると考えるのが自然である。仮に本人が合祀を望まない旨遺言していたとしても、追慕する側(上記判例で言えば隊友会あるいは護国神社)の信教の自由があるので、合祀することに法的な問題はない。

もちろん国家が靖国神社に対して合祀申請を出すことは(個人的には賛成だが)、通説的な「厳格な政教分離」の見解からすれば認められないであろう。よって、おそらくこの場合も隊友会が申請するか、あるいは一宗教法人たる靖国神社が自主的に合祀するかのどちらかになると思われる。

また、靖国神社側が戦死者の所属宗教によって合祀を拒否することも考えにくい。なぜならそれは靖国神社の存在理由を自ら否定することにつながりかねないからである。

なんらかの勇敢な行為の末に亡くなった方をどこかの神社、寺院、あるいはキリスト教会などが祭神や聖人として崇敬したとしても、それに違和感を覚える人はそれほど多くないだろう。それはそれぞれの宗教にも故人を追慕し崇敬する自由があるからである。
靖国神社や護国神社を政治的な目で見るから話が混乱するのであって、一宗教法人と考えれば合祀には全く問題ないし、靖国神社から見ればその設立趣旨に則って合祀するのが当然という結論になるであろう。

昨日読了した「那珂太郎詩集」の衝撃がいまだに尾を引いている。

最近詩を書き始めたと言っていたが、所詮は中桐雅夫の劣化コピーのようなもので、ドラえもんに対する「トンチャモン」、剣道に対する「クムド」、あるいはチャイナでごく普通に売られている高級ブランドコピー商品のようなものである。

いや、コピー商品には買い手がいる。
私の詩には発表の目処すらないし、もちろん買い手はつかないであろう。

チャイナ製コピー商品以下の詩作品か。
まったく鬱になる話である。

しかし継続は力なりという言葉もある。
宝くじも買わなければ当たらない。
別に詩壇に華々しくデビューすることが目的ではないので、ぼちぼちと書いていくことにしよう。

少なくとも、誰にも迷惑はかからないはずである。

思潮社刊 現代詩文庫 1968年11月1日初版第1刷、私が購入したのは2001年6月1日第12刷である。
初期の作品から順に掲載され、最後に代表作である詩集「音楽」が全編収録されている。

初期のころから音の響きを上手く使った作品であると思いながら読み進んでいくと、「音楽」に至ってその反復する音響の美しさと生まれ出るイメージのふくらみが最高潮に達する。

「すべて芸術は絶えず音楽の状態に憧れる」というペイターの有名な言葉があるが、作者自身がこの詩集に「音楽」と名付けていることからも、自信作であることが伺える。

以下に作者自身の詩論を抜粋する。

【引用開始】
 ことばの音韻性――なかんずく頭韻もしくは母音律によって、ことばを追求すること。――それはけっして聴覚美としての効果をねらっての、技巧なのではない。作者は効果をねらふのではない。むしろ虚心にことばの自律的うごきに随はうとするのだ。ことばをしてことばを呼ばしめ、ことばをしてみづから行かしめることによって、おのれの未知の領域に達しようとするのだ。したがって、そのとき構文法は顕在的論理によって拘束されず、ほとんどことばそれみづからの要請のままに、波のやうにうねってゆく。だがそれはおそらく、シュウルレアリスムの自動記述ともまるで異る。意識の消去乃至拡散による放縦はここになく、極度の意識の集中によって、作者はことばを選択させられるのだ。論理はこえられても意識はたえず覚めていなければならぬ。
【引用終了】

正直言って、打ちのめされた。
この20年ほど詩作を試みることもなかったが、最近になってかつて慣れ親しんだ14行詩の形式で数編の習作を書いていた。
多少なりとも韻律や言葉の響きには気をつけていたが、それは技巧ですらなくただの語呂合わせ遊びにしか過ぎなかったようである。

もちろん那珂太郎のような作風がすべてではないが、とてもちょっと真似してみようなどと考えられるものではない。

なお、著者は歴史的仮名遣いを用いている(にも関わらず、促音は半角の「っ」で印刷されている)。
再び引用する。

【引用開始】
 戦争はおびただしい日本人をころしたが、戦後の、新仮名遣・当用漢字による表記法は、おびただしい日本語をころしたと思ふ。(略)その根底にあるのは言語蔑視、自国の文化伝統蔑視の思想だらう。仮名遣の人為的混乱による言葉のいのちの圧殺は、戦争などよりはるかに永続的な禍根を、この国にのこすことになると信ぜざるをえない。
【引用終了】

これ以上、私ごときが書くべきことは何もない。

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