立原恭輔「自由主義者の日記」

保守の立場からの政治問題を主とするblogであったが、いつの間にか「矢島舞依」「Velka」などを中心としたロックファンblogの様相を呈しつつある。 学位は博士(専攻は非公開)。

février 2015

このところ被災者や戦死者に対する、あるべき慰霊のかたちを考察するための資料となりそうな本を続けて読んでいる。
その手始めに、1月ごろに読んだのがこの本である。吉川弘文館 2003年4月20日第1刷。

Ⅰ章の、戦死者の慰霊が各家々で行なわれていた事実は、フィールドワークに基づいて明らかにしている点で面白く読んだが、当然といえば当然のことである。
「国家が不自然な多重祭祀を行なうのは死者への冒涜のきわみ」という結論はあまりにも飛躍が過ぎる。戦没者遺族にも「家単位での慰霊は当然として、国家としての慰霊を」と求める声は決して少なくないはずである。

Ⅱ章は柳田国男民俗学の批判的検討が主である。民俗学の知識は殆どないので、良くわからない部分もあったが、興味深く読んだ。

Ⅲ章「天狗と戦争」は、戦時中、天狗が祭られている神社への弾丸よけ祈願が爆発的に流行したことを記している。
「民衆の間では『七生報国』よりも千人針や天狗参りの弾丸よけ祈願がおこなわれていた」としている点に著者の思想傾向が顕われているが、従軍が「死ぬために」ではなく「死をも恐れず」のものである以上、七生報国と弾丸よけ祈願は特に矛盾するものではないと私は思う。

全体として興味深く読んだが、賛同はできない。
冒頭からアジア太平洋戦争という(私から見ると)不自然な用語を使っていることで、著者の思想的傾向が見えてしまった。

昨年10月から放送大学大学院に修士科目生として所属してきたが、4月から修士選科生になる。
放送大学の講義は基本的に半年を1クールとしており、科目生は半年間、選科生は1年間所属してそれぞれの希望する科目を学ぶ。私は昨年10月から「公共哲学」という講座を半年間学び、試験を受けて単位を取得した(成績はあまり良くなかったが)。
新学期に選択した4科目の教科書がすでに配達されたので、そのなかから「哲学史における生命概念」を読み始めた。さきに受講した「公共哲学」は哲学という名称ではあっても学生時代の専門であった政治学や社会学との関連が深いため、なんとか学習を進めることができたが、哲学については全くの素人である。
プラトン、アリストテレス、ダ・ヴィンチ、デカルト、パスカル、ライプニッツと進み、このあたりまではそれほど問題なくついていけたのだが、カントに入って全く分からなくなった。全ての西洋哲学はカントを通るというほどであるから、ここは絶対に避けて通れない。しかし、何度読み返してみても何を言っているのかさっぱりわからないほどである。
とりあえず通読してみようということで読み始めたため、哲学のボキャブラリーに馴染んでいないことが理由の一つであろう。突然「認識構造は感性、悟性、理性からなる」だの「絶対的に命令する定言命法こそが道徳原理の本質」だのと言われてすぐ理解できたら人間業ではない。外国語と同じで、まずは単語の意味を理解しないと解読不能である。だんだん頭も古くなり、慣れない言葉が一度出てきただけでは覚えられないので「えーと、悟性ってなんだっけ?」の繰り返し。
かといって、こうしたボキャブラリーに慣れさえすればテキストを理解できるというだけの自信はない。自慢じゃないが、私は目に見えるものしか理解できないのである。
しかし、「目に見えるもの」などと言っている時点で、カントが言っていることを全く理解できていないと明らかになってしまうのであった。

ISIS/ISILによる邦人殺害事件に関して、ふと思いついたことがある。
ある人の「思想信条」とその人が「政府に求める対応」との間に「ねじれ」があるように思うのだ。

便宜的に左派と右派に分け、それぞれの主張がどのような傾向にあるかを記述する。
まず人質をどうするかについて。大半の人々は政府に対して「できるだけの対応をするよう」求めるだろうが、その後ろにはつぎのような考えがあるようだ。……①
左派「人質の安全は政府の責任」
右派「基本的に自己責任」

よって救出できなかった場合についても、……②
左派「政府の責任を問う」
右派「政府に責任はない」

ところが、今後の対策について問われると、……③
左派「外交や言論で予防、発生時も交渉で解決を。諜報機関や軍事力の強化には反対」
右派「外交や言論には限界がある。諜報機関や軍事力の充実を」

③の部分でねじれが生じていると感じないだろうか。
左派が主張するように人質の安全が政府の責任であるならば、軍事力を用いてでも救出せよと求めるのが筋である。
右派の自己責任論を徹底するのであれば、救出のために税金を使って軍事力を増強する必要はないことになる。

逆に「外交や言論のみによる予防、救出」を主張するのであれば、「それが実現しない場合に人質が危害を加えられても仕方ない」という結論になるはずである。
「軍事力を行使してでも救出せよ」というなら自己責任論ではなく「人質の安全は政府の責任」となるのではなかろうか。
もちろん国民は単純化された「左派」と「右派」ではなく、政府に求める対応にもいろいろな段階があるのだが、話の筋としてはこうなるはずである。

ここまで一口に「責任」と書いてきたが、政府の責任と人質自身の責任とを分けて考える必要がある。
まず政府には国民を保護する責任がある。人質がどのような者であろうと可能な限りの手段を用いて救出に努めるのが当然である。そのためには諜報機関や軍事力の充実が求められる。自衛隊の特殊部隊による救出は今の時点で現実的ではないと思われるが、それを可能とすべく装備や訓練を充実させるべきである。
もちろん全ての事案について軍事的対応をするとは限らない。事案ごとにもっとも適切な措置を執ることとし、その選択肢を増やすために軍事力や諜報力の増強が求められるのである。

自ら紛争地に入った人質にも当然責任がある。この場合の責任とは「誘拐されるなどの危険を自ら負担すること」というほどの意味であり、人質にこの意味の責任があるからといって、政府が救出の責任を免れるわけではない。
もちろん、人質にされるに至った経緯や態様によって責任の軽重はある。物見遊山のバックパッカーなどは論外である。避難勧告を無視したボランティアなども責任は重い。ジャーナリストについてはある程度の危険を負担してでも報道するのが責務であるからかなり情状酌量の余地があるが、無謀に深入りした場合などは責任が重くなろう。公務であればほぼ責任はなかろうが、危険地域で護衛をつけることを怠ったような場合には責任が生じてくる。

おそらく「右派」のなかには、ジャーナリストについての責任軽減に違和感を覚える者もいるだろう。ISIS/ISILによる人質事件について「ジャーナリストは商売、金儲け」「従って自己責任であり救出無用」と主張する者が意外なほど多かったが、こうした単純な論法に説得力を見出すことは到底できない。このような意見は「ジャーナリスト=左派」という固定観念から来るものではないだろうか。
例えば「拉致被害者の行方に肉薄していたジャーナリストが北朝鮮に拘束された」というケースを想定しよう。この取材意図の重要性は右派にとっても充分理解できるだろうが、その潜入計画があまりにも杜撰・無謀であったなら取材意図がどうであれ彼の責任は重くなる。しかし安全と思われた中朝国境付近で取材中に北朝鮮スパイに拉致されたのであれば、ほとんど責任はないというべきである。

「責任」という言葉を、左右両派とも濫用していることが問題である。
左派は政府の政治的・道義的責任を追及せんがために「政府の責任」というが、その責任を全うするための手段は「外交・交渉」などに限定しようとする。ISIS/ISILの事件後に民主党が中心となって政府の「責任」を追及したが、首相や官房長官の動向をあげつらうのみでその切れ味は極めて鈍かった。政府批判は「もっとできたはずだ」とか「官邸にいるべきだった」のレベルにとどまり「こうすれば解決できた」というだけのものを持っていないからである。「政府の責任」論は単に政府攻撃の道具でしかないというべきだろう。

一方、右派は「自己責任論」を持ち出すが、これは左派への対抗上という印象がある。自己責任論自体は何も間違っていない。しかし「自己責任だから政府は何もしなくていい」「自己責任だから殺されていい」ということにはならない。これでは政府や国家の存在意義さえも怪しくなってくる。

左派は政府を攻撃するためであればテロリストも平気で利用するので、もはやつける薬はないと思うが、右派もそれにつき合って粗雑な議論をすべきではない。揚げ足を取られて政府の足を引っ張るだけである。

北海道新聞の「慰安婦報道」について、日本会議が質問状を出したところ「紙面で答えた」という木で鼻を括ったような回答。

いくら二流のブロック紙とは言っても、もう少し真面目に対応してはどうか。
それとも全てわかった上でのプロパガンダ報道だったから、いまさら訂正も何もする気がないということだろうか。
はたまた共同通信の配信記事と朝日新聞の猿真似だけでやってきたので、どうしていいかわからないというところか。
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Au regard des faits historiques et du droit international, Takeshima fait indubitablement partie intégrante du territoire japonais.
La République de Corée occupe Takeshima de manière illégale et en complète violation du droit international. Les mesures prises par la République de Corée concernant Takeshima n’ont par conséquent aucune justification légale.
Le Japon continuera à rechercher de manière calme et pacifique un règlement du litige autour de la question de la souveraineté de Takeshima fondé sur le droit international.
Note : La République de Corée n’a jamais apporté le moindre élément tangible pour appuyer ses revendications, à savoir que la Corée contrôlait de facto Takeshima avant que le Japon n’y établisse sa souveraineté ou ne la réaffirme en 1905.

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