立原恭輔「自由主義者の日記」

保守の立場からの政治問題を主とするblogであったが、いつの間にか「矢島舞依」「Velka」などを中心としたロックファンblogの様相を呈しつつある。 学位は博士(専攻は非公開)。

août 2015

イメージ 1
8月15日の靖国周辺で、歩道上で反天連のデモ隊に並走することさえ阻止された。

左翼暴力集団が仕込んだデモ隊が車道に出るのは、機動隊でも阻止しきれないらしい。

やはり、数は力。
議会における数は否定され、左翼暴力集団の仕込んだデモ隊の数は肯定されるのか。

来年の8月15日は何とかしないと。
殺人もいとわない左翼暴力集団に勝てるとは思わないが、私たちはおしとやかに過ぎるのかも知れない。

イメージ 1

イメージ 2


「威張ったり人をバカにしたり」って、てっきりSEALDsのことを批判しているのかと思った。

こうした「どっちにも当てはまる」「どうにでも言える」ような代物を「精神分析」と言ってよいのだろうか。こんなことを「精神科医」の肩書で行うから、精神医学をニセ科学扱いして信用しない人が出てくるのではなかろうか。真面目な精神医学者にとっては迷惑なことだろう。

イメージ 1

私「栗山千明が複雑骨折だって」
家内「どうしたの?」
私「足を滑らせて転んだらしいよ」
家内「政治家は口を滑らせて転ぶよね」

野党政治家が口を滑らせてもあまり問題にならないのは不思議w

※ということで、カテゴリは「政治」w

イメージ 1

 最近よく聞く言葉に「多文化共生」がある。しかし、その定義はよくわからない。人種や民族が違っても共に生活できる環境整備、といったところだろうか。ひとつの例として、たまたま検索に引っかかった八王子市のHPには「『国籍、民族、文化の違いを認め合い、助け合い、活かし合いながら、共に暮らす多文化共生社会のまちづくり』を基本理念とする」とある。「合い」が3箇所あり、「共に暮らす」とある以上は、認めるべきは認め、譲るべきは譲り、守るべきは守ることを相互に行なうのが前提になりそうである。この「相互に」というところがポイントだと思う。

 写真は上智大学:伊達聖伸准教授の文章に添付されていたものである。伊達氏は宗教学者であり、フランスの政教分離原則「ライシテ」に関する研究で知られている。

 私はネット上に掲載されていた伊達氏の文章の中からこの写真を見つけ、保存しておいた。当初は何と言うことでもなく、中東系らしい浅黒い肌と整った目鼻立ちにフランス国旗と同配色のスカーフを被った姿が美しかったからである。もちろん、これがフランスのライシテに関わる何らかのデモンストレーションとして行なわれたのであろうことは推察できたが、この写真を元にしてすぐに何か書こうということにはならず、しばらくあたためていたのである。

 写真には「2009年6月29日、Islamicus氏撮影」との説明が付されている。2009年といえば、サルコジ大統領(当時)が6月の両議院総会における演説で「ブルカはフランス共和国では歓迎されない.共和国が女性に対して抱く尊厳とかけ離れているブルカは宗教的な問題ではなく,隷属のしるしだ」と述べた年である。すると、この写真はサルコジ発言に対する抗議の様子なのかも知れない。

 伊達氏は「この写真には、スカーフを被ることと、フランス共和国原理(としてのライシテ)をともに守ろうとする姿勢がよく出ています」と述べている。私もそう思う。この写真が美しいのは、調和を求める姿が現れているからではないだろうか。この女性がフランス国籍なのか、あるいは国籍の違う移民なのかはわからないが、イスラム教徒としてスカーフを被ることを主張するだけでなく、フランス共和国のアイデンティティの核心とさえ言われるライシテを尊重することも併せて宣言しているところが、見るものに共感を抱かせるのではないかと思う。

 日本人は自己主張が苦手だと言われる。それは、互いに譲り合うことが習慣となっているからである。「譲り合う日本人」を賛美しているのではない。ビジネスの現場でも自らの主張のみを押し付ける態度は好まれず、自分が譲る姿勢を見せることで相手の譲歩を促し「落としどころを探る」ことがしばしば行なわれる。日本人の国民性、あるいは習慣として「譲歩」が根付いているのである。この写真には、自らの宗教的アイデンティティを主張する凛々しさと共に、フランスに対する尊敬と謙譲で控えめな態度が現れている。

 我が国でも「多文化共生」が唱えられることが多くなった。先述のとおり、八王子市(首都の一部ではあるがそれほど大規模でもなく国際化が特に進んでいるわけでもなさそうな地方自治体)でさえ「多文化共生社会のまちづくり」を掲げているほどである。
 
 「多文化共生」が国籍、民族、文化の違いを真に「相互に」認め合おうというものであれば、反対する理由はない。
 しかし、どちらかが一方的に譲歩を余儀なくされたり忍耐を要求されたりすることも少なくない。我が国での身近な例にゴミ処理問題がある。ゴミを分別したり決められた日に集積場に出したりという習慣がない外国人がコミュニティに増え、もともと住んでいる住民が悲鳴を上げている。外国人は自分たちの習慣に従っているだけで悪気はないのだろうが、行政が指導してもなかなか改善しない。これも「文化」なのである。結果として、先住市民たちは不潔な環境に一方的な忍耐を強いられる。
 「くさや」のようなもの、そこまでいかなくても匂いの強い香辛料や香草を毎日摂る習慣のある民族がいたら、隣人はその臭気に耐えられないかもしれない。食事の内容を変えるか隣人が我慢するかの二者択一で、どちらかが我慢するしかない。
 魚を食べることが禁忌とされている民族があるとして、そこに日本人が一定数移住したら、共存は難しいかもしれない。日本人の魚食文化を尊重してもらおうとすれば、その民族に譲歩を強いることになる。むしろ「リトル東京」みたいな地区に日本人コミュニティを作るほうがうまくいくかも知れないが、それはそれで「同化を拒む他民族」と評価されそうである。
 私の実体験で、ある国の首都、立派な都会での話である。この街の高級住宅街に何頭もの羊を連れた羊飼いが行商に来る。住民は羊を生きたまま買い、首の動脈を切り庭に逆さ吊りにして血抜きをする。これを他国の住宅地でやられたら、いくらそういう習慣なのだと説明されてもちょっとしたパニックになるかも知れない。
 ちょっと違う話だが、食物がらみの事例としてインドネシアにおける「味の素」追放問題がある。イスラム教徒の多いインドネシアで普及している「味の素」に豚肉が使用されているという噂が流れ、現地法人の社長が逮捕される騒ぎとなった。製造過程で触媒として豚の酵素を使っていただけで製品に豚由来の成分が含まれているわけではなかったそうだが、宗教的な問題となるとそう簡単には収まらないのである。

 学習によって互いの文化を理解する(=知る)ことはできても、実生活に影響が出てくればどちらかが譲歩せざるを得ない。羊の逆さ吊りのように、具体的に害はなくても「気味が悪い」「残酷だ」と感じるものは理解する(=容認し尊重する)のが難しい。お互いに譲り合って……と言うのは簡単だが、実際には迷惑を被っている方が忍耐を強いられることになりそうである。「多文化共生」と言葉にすれば美しいが、善意さえあればうまくいくような簡単なものではない。

 念のためにいっておくが、私は異なる民族が同じ地域に居住することに反対はしない。しかし口で言うほど簡単ではないと言っているのである。
「共生」がうまくいくかどうかは、混住の進み方にもよるだろう。ある国への移住が長い年月をかけて少しずつ行なわれた場合、軋轢は少なくて済む。移住者側も徐々にその土地の文化に慣れ(完全に同化する必要はないが)「うまくやっていく方法」を見つけることができるからである。逆に短期間に大量の移民を受け入れた場合などは、お互いを知り、容認し、尊重するだけの時間的余裕がない。

 フランスの「共和国におけるライシテ原則の適用に関する検討委員会」通報スタジ委員会はその報告書のなかで「ライシテは制度的な規則というにとどまらない。それは〈共和国契約〉pacterépublicainの基礎をなす価値であり、〈共に生きる〉vivre ensemble方法と多元主義・多様性との両立を可能ならしめる」と述べている。
 しかし、実際に発生しているイスラム教徒との軋轢は決して小さいものではない。各国の移民問題にはそれぞれの歴史的経緯による違いもあるが、どこの国でも少なからぬ問題を抱えている。

 私は冒頭に掲げた写真に善意と謙譲を見出したのであるが、移民の全てがこうした考えではないし、先住者も同じである。「善意さえあれば」「お互いに譲り合いさえすれば」というだけで「多文化共生」を推進するのは無責任以外の何ものでもなく、移民にも先住者にも決してよい結果にならないと考える。

イメージ 1

「国会で残念ながら私たちは少数だ。法案を阻止するためには国会の外で多くの皆さんに声を上げていただくことが不可欠だ」

こういう発言は「国会軽視」にはならないのだろうか。
国会における多数派の意見を認めないということは、その正統性(「正当性」ではない)を認めないということに他ならないと思うのだが、この人は選挙の結果を認めないのだろうか。
もちろん、選挙そのものに不正があったとか、そもそも選挙制度が不当なものであるとか主張するのであれば、話はわかるが、いかに恥知らずの民主党でもそこまでは言えないだろう。

一方、共産党をはじめとする左翼暴力集団が選挙を認めないのは、当然と言えば当然である。彼らは暴力革命とそれに続く独裁を目標にしているのだから。
そういえば共産党の別動隊である学生が「多数決で決まる政治はおかしい」などと言ったらしい。本音が出たというべきか。

↑このページのトップヘ