立原恭輔「自由主義者の日記」

保守の立場からの政治問題を主とするblogであったが、いつの間にか「矢島舞依」「Velka」などを中心としたロックファンblogの様相を呈しつつある。 学位は博士(専攻は非公開)。

janvier 2016

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ネット上の拾い物。

民主党は民主主義政党ではないと以前から思っていたので、実にわかりやすい。

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http://blogos.com/article/156491/

この記事に対するコメントにも
>>>「強い外国人力士を(本当は)望んでいない」という気持ちの表れでもあるように思います。
>>>そういうところが今回の報道であぶりだされた気がして、なんかちょっと嫌な気持ちになってしまいました。
などというものがあって、こっちが嫌な気持ちになった。

こういう考えのなかにこそ、
「日本人は差別的であるはずだ」
あるいは
「日本人には差別的であってほしい」
という一種の差別心が潜んでいるのではないか。
そうだとすればこのような差別心のなかには
「差別的な日本人どもの中にあって、自分だけは違う」
という歪んだエリート意識があるのではないかとさえ感じる。

外国人力士の活躍、大いに結構。
高見山の入幕が1968年、小錦の大関昇進が1987年、曙の横綱昇進が1993年である。小錦が横綱になれなかったのは差別のせいだ、などという声があるのは事実だし、元横綱審議委員会委員だった児島襄が「外人横綱は要らない」という文を発表したこともあったが、いまや外国人力士はすっかり相撲界に定着している。「モンゴル人が強いのはけしからん」なんて思っている人はほとんどいないだろう。

しかし、相撲は「日本人が得意」どころか「日本以外ではほとんど行われていなかった」武道である。しかも現在でも神事としての性格さえ持っている。
相撲でなくても「日本人が得意としていた競技で」「日本人が何年も優勝できない」のは決して喜ばしい状況ではない。いまは国際的なスポーツになったとはいえ、日本発祥の武道である柔道で日本人が全く勝てなくなったら、メディアが騒がない方がおかしい。

外国人力士を貶めているわけでも排斥しているわけでもなく、ただ「日本人力士がんばれ」「10年ぶりの優勝を」ということの何が問題なのか。
少なくとも私は日本人力士の奮起を期待する一方で、今場所の白鳳がやや調子を落としていたのが心配だし(それでも強かったけれども)、鶴竜がなんとか10勝をマークしたことにほっとしてもいる。

「日本人がんばれ=偏狭なナショナリズム」と決めつける感覚の方がおかしいと私は思うが、この分だと「琴奨菊がんばれ」が外国人力士に対するヘイトスピーチと認定されるのもそう遠い話ではないかも知れない。

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このところフランスの「ライシテ」や昨今のテロ事件に関する書籍や論文を読んでいるが、「タブーなき言論の自由」という話がしばしば出てくる。

「タブーなき」は結構だが、「なんでもあり」は理解できない。
シャルリー・エブドの風刺画に批判的なフランス人でさえ「タブーを作るべきではない。私にはシャルリー・エブドを読まない自由がある」というのである。

それなら本当にどんな言論も自由なのかと言えば、テロを煽るのは犯罪になるらしい。我が刑法における侮辱罪や名誉棄損罪のようなものもあるようだ。

上の風刺画のセリフは
「幼いアイランが成長したなら、どんな大人になっていただろう?」
「ドイツで尻を触る人さ」
アイランとは、トルコの海岸で溺死した7歳のシリア難民の子である。

フランスに「宗教を冒涜する自由」があることははっきりしている。
死者を冒涜する自由もあるのだろうか。

シャルリー・エブド襲撃事件のあと、私は娘とともにフランス大使館に献花した。
しかし花束に添えたメッセージに「Je suis Charlie」とは書かなかった。
凶弾に斃れたジャーナリストやイラストレーターへの弔意と、シャルリー・エブドへの賛意は全く別だからである。

”Je ne suis pas Charlie”-私はシャルリーではない。

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毎年のようにバカが湧いてくるが、こやつらも法的に成人として処断される。

少年扱いされなくて本人たちもさぞうれしいだろう。めでたい限りである。

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リカちゃん人形と同じ「香山リカ」を名乗っているだけでも、この精神科医はどこかおかしいんじゃないかと思っていたが、やはりまともではないらしい。

こんなのをありがたがってコメンテーターなどとして採用しているテレビ局もどこかおかしい。

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