Flower_offering_at_Higashi_Ikebukuro_2019-04-28

池袋暴走事故をめぐる報道には驚かされる。
猛スピードの車両に母子が跳ね飛ばされるという悲惨な事故である。被害者遺族が悲憤するのは当然だし、一般人から加害者への感情的な非難が集中するのも理解できなくはないが、それを冷静に報道し、解説するのがマスメディアの役割ではないのか。

私に事故原因が確定できるわけもないが、同種の事故の多くが「踏み間違え」と結論づけられているのを見れば、この事故もおそらくそうなのだろうとは思う。
しかし、メディアが事故原因を決めつけ、コメンテーターを総動員して加害者を袋叩きにする光景には、醜さしか感じない。

座間の大量殺人犯でさえ、ここまでの批判はされていないのではないか。

「車の不備を主張するなど、どこか人ごとの供述。事故の凄惨さから考えて、もう少しご自身の責任と向き合うべきではないか」(八代英輝)
「普通、泣き崩れるでしょ、本当にすいませんと。自分の主張ばっかり。だから、謝っても口先だけにしか聞こえてこない」(立川志らく)
「責任をこうやって他の人に求める姿勢が出世することに重要だったのかな?って考えてしまうんです。そういう人しか生き残らない社会に日本はなったのかってすごく絶望する」(中野信子)
「官僚の無謬性っていう言葉があるんです。官僚は間違えてはいけないってずっと思っているうちに、官僚は間違いないにいつの間にか変わるんです」(玉川徹)

先にも述べた通り、同種の事故は何回も発生している。その中には加害者が「車両の不具合」を主張したケースもあったと記憶する。そのたびにメディアはこうやって加害者を袋叩きにしただろうか。
なぜ今回だけそうなのか。被害者が若い母親と幼児だったからなのか。でははねられたのが老人だったら、報道は加熱しないのか。
元高級官僚である加害者を「上級国民」と呼び、あたかも警察が手心を加えているように報道し、事故に対する市民の怒りを、社会分断や政府批判に誘導したいからではないのか。

なかでも最低なのは中野信子である。故意の犯罪ならともかく、過失で事故を起こした加害者の人生までも「責任を他人になすりつけて出世してきた」と決めつけ、否定することが許されるわけがない。
玉川徹は、もはや狂人の域である。無謬性を主張するのは、メディアも同じではないか。だから玉川は根拠なきコロナウイルスの恐怖を「間違いない」とあおり続けてきたのではないのか。

市民の怒りの感情を根拠もなく煽る、こうした報道には既視感がある。朝日やTBSが徹底して行ってきた政権批判である。

幸い、わが国は法治国家である。法律よりも国民感情が優先されるどこぞの国とは訳が違う。
加害者が「自分は踏み間違えていない」と主張するのなら、「踏み間違え以外に考えられない」という客観的な証拠をそろえることが重要である(車両不具合を否定する証拠は複数挙がっているとも聞く)。

コメンテーターと称する電波芸者が、根拠なき決めつけ報道を行なってよいわけがない。
彼らが、母子の命が失われたこの悲劇を、加害者がたまたま元高級官僚だったのを利用して、「他人ごと」として面白がっているからこそできることだと思う。

念のために言っておくが、私は刑罰には応報刑の側面があることを強く主張するものであるし、被害者遺族が厳罰を求めることも理解できる。

しかし、この事故の結果が悲惨だからという理由で、同種の(踏み間違えが強く推定される)事故と比べて、極端に重く罰することには反対であるし、電波芸者が加害者を面白がってリンチにかけることを許すべきではないと考えるのである。